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親鸞聖人御絵伝 解説(名古屋別院所蔵・江戸期作製)

2016年4・5月に宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要を厳修するにあたって、賞典として下附された「親鸞聖人御絵伝」です。
宗祖90年の御生涯を感銘深く述べられた絵巻物である『親鸞聖人伝絵』。その絵の部分を抜粋し掛軸にしたものが『御伝絵』です。この品はもともと四幅仕立てである掛軸を一幅にまとめています。下から上へと順々に宗祖の御生涯が解りやすく描かれており、「1」~「9」は宗祖求道の歩みが主に吉水時代を中心に描かれ、「10」~「20」は承元の法難から本廟創立までが描かれております。そこには、後々の世まで本願念仏の教えを伝え護っていかねばならないという作者・覚如上人の強い責任感と使命感を感じる事ができます。


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名古屋別院御絵伝掛軸
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右側下より「1」~「9」、左側下より「10」~「20」
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右側 「1」~「3」(PDFファイル)「4」~「5」(PDFファイル)「6」~「7」(PDFファイル)「8」~「9」(PDFファイル)

左側 「10」~「12」(PDFファイル)「13」~「15」(PDFファイル)「16」~「18」(PDFファイル)「19」~「20」(PDFファイル)

「出家学道(しゅっけがくどう)」

「1」 「青蓮門前(しょうれんもんぜん)」

9才で仏道に入ることを決めた松若丸(聖人幼名)が、養和(ようわ)元(1181)年春、伯父日野範綱(のりつな)に伴なわれ慈鎮(じちん)和尚のいる青蓮院(しょうれんいん)に到着したところ。
図では、已すでに松若丸は入室のあとで、門前に松若丸を送ってきた供人が一休みしているのを見ることができる。又、門を入ったところでは、玄関前で範綱の家来や附人達に寺侍(家老の日野源十郎)が挨拶をしている様子が描かれている。

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「2」 「青蓮客殿(しょうれんきゃくでん)」〈左〉・「得度剃髪(とくどていはつ)」〈右〉

図中左側は「1」と同時図で、青蓮院客殿で剃髪前の稚児姿の松若丸と範綱が慈鎮和尚に対面しているところ。
図中右側は松若丸が得度の儀式を受けているところ。後に控えているのが範綱、机を前に座っているのが慈鎮和尚である。この時、範宴少納言公(はんねんしょうなごんのきみ)と名を改め、以後比叡山に登って20年間の厳しい修行が始まるのである。

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「吉水入室(よしみずにゅうしつ)」

「3」 「吉水入室」

比叡山での長い修行は結実しなかった。新たな道を求めて吉水の法然上人を訪ねたのである。門を入って、縁先に立って先頭にいる人が親鸞聖人である。つづいて入室、奥に座しておられるのが黒衣姿の法然上人、それに対座している人が白衣姿の親鸞聖人である。

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「六角告命(ろっかくごうみょう)」

「4」 「六角告命」

建仁3(注)(1203)年4月5日、六角堂の本尊、聖徳太子の本地救世菩薩(くせぼさつ)より夢告を受けた。それは行者宿報等四句のぼ「宿報偈(しゅくほうげ)」であった。この偈によって在家者の仏道の在り方をいただかれたのであった。
図中左側は、親鸞聖人が六角堂の本尊救世菩薩の夢告を感得し合掌している姿であり、右図は、同じく親鸞聖人が縁先に立って、東方の山中の人々にこの夢告を宣説しておられる姿である。
(注)覚如上人の思いちがいで、建仁3年ではなく建仁元(1201)年のことと、現在では考えられている。

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「蓮位夢想(れんいむそう)」

「5」 「蓮位夢想」

親鸞聖人晩年84才の時のことである。関東より随従してきた下間(しもつま)の蓮位房が夢想を感得した。その内容は聖徳太子が親鸞聖人を礼拝しておられるというものであった。伏しているのが不思議な夢想を感得した蓮位房で、黒衣で立っておられるのが親鸞聖人、対座して合掌しておられるのが二十五条の袈裟(けさ)を着た聖徳太子である。

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「選択付属(せんじゃくふぞく)」

「6」 「選択付属」〈右〉・「真影銘文(しんねいめいもん)」〈左〉

親鸞聖人(当時は綽空(しゃっくう)と名乗っている)33才、師の法然上人73才の元久(げんきゅう)2(1205)年、師より『選択集』の書写を許された。つづいて師の真影(しんねい)を描くことも許された。
図中右側の『選択集』を渡しておられるのが法然上人、対座して手にそれをお受けしようとしているのが親鸞聖人である。
図中左側は、真影に讚銘(さんめい)を記しておられる法然上人に、室内で対座している聖人が描かれている。

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「信行両座(しんぎょうりょうざ)」

「7」 「両座進言(りょうざしんごん)」〈右〉・「信行分判(しんぎょうぶんぱん)」〈左〉

吉水の禅室において或る時、親鸞聖人は他力信心について、師の法然上人の許しを得て多くの門弟に問うことになった。それは信不退、行不退のいずれか、自らの信の在り方を座に示すことであった。この時親鸞聖人は信の座に就き、後ほど師法然上人も同じく信の座に就いた。
図中、門の右側では両座分判の内談が行われており、中央に法然上人、その左手で上人と対座しているのが親鸞聖人である。門の左側の図は分判の当日、三百余名の門弟が行の座に就き、法然上人、親鸞聖人等数名が信の座に就いているところ。信の座で奥に座しておられるのが法然上人、筆をとっているのが親鸞聖人、遅参して縁先にいるのが熊谷入道直実(くまがやにゅうどうなおざね)(法力房蓮生(ほうりきぼうれんしょう))である。

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「信心諍論(しんじんじょうろん」

「8」 「信心諍論」

吉水の禅室での或る時のこと、法然上人と親鸞聖人の念仏の同異について、聖人と聖信房などの門弟の間で論争となった。その時、師の法然上人は「仏より賜わりたる信心なれば皆同じである」との判をなされたという。
図中、中央に座しておられるのが法然上人、この諍論を判決している。左側の前に座すのが親鸞聖人、後方六人は聖信房などの門弟である。

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「入西鑑察(にゅうさいかんざつ)」

「9」 「入西鑑察」

仁治(にんじ)3(1242)年9月21日、親鸞聖人70才、京都五条西洞院の禅房での出来事であった。弟子の入西房が真影を描写したいと思っていることを、聖人が察せられてこれを許し、画師定禅法橋に描かせた。
図中右側の、中央におられるのが親鸞聖人、縁側右に座しているのは入西房、左は蓮位房である。図中左側の中央に親鸞聖人、筆をとって対座しているのが定禅、左端三人中一人は入西房である。

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「師弟配流(していはいる)」

「10」 「念仏停止ちょうじ」

承元元(1207)年2月、師法然上人の創(はじ)めた専修(せんじゅ)念仏は停止(ちょうじ)を命ぜられ、ついに門弟4人が死罪、上人以下8人が流罪(るざい)の 刑に処せられた。親鸞聖人はその時35才、藤井善信(よしざね)という罪名で越後の国府へ遠流(おんる)となった。
図は内裏の門を中心に念仏停止宣下(せんげ)の様子を内外にわたって描いている。右上端に内裏番所、検非違使(けびいし)が黒衣の住蓮房を取り締り捕えようとしている。

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「九卿僉議(きゅうけいせんぎ)」

「11」 「九卿僉議」

念仏停止の宣下により、次は罪人の捕縛、罪の決定を急ぐことになり、御所のくぎょう仁寿殿(じじゅうでん)で公卿(くぎょう)を集めて詮議が進められる。図は仁寿殿での詮議の様子、六人の黒装束の人達は評定(ひょうじょう)する公卿である。

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「法然配流」

「12」 「法然配流」

75才の法然上人が配所へ輿(こし)にて出発されんとしているところの図。法性寺(ほっしょうじ)の御堂に立っておられるのが法然上人である。多くの門弟等に見送られての出発である。

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「親鸞配流」

「13」 「親鸞配流」

吉水の禅室をあとに師と別れて、親鸞聖人も配所、越後の国府にむけて張輿(はりごし)に乗せられ出達されんとしている。図中右側は聖人が輿に召されたところであり、門の左側は親鸞聖人が乗った輿が出達していく様子である。

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「稲田興法(いなだこうぼう)」

「14」 「越後巡錫(えちごじゅんしゃく)」〈右〉・「稲田興法」〈左〉

 越後での五年の流刑が赦免(しゃめん)された後、法然上人の入滅を知り親鸞聖人はしばらく越後にとどまられた。しかし、建保(けんぽう)1 (1214)年聖人42才の時、妻恵信尼(えしんに)や家族をともなって越後をあとにし、関東の地に趣かれる。  図中右半分は越後を出発する親鸞聖人、海岸は越後の国府に近き居多ヶ浜(こたがはま)を描いている。  図中左側は東国各地を経廻した後、稲田(茨城県笠間市)に居を占めた様子。多くの門弟がこの稲田の草庵を訪れたが、その門弟等に親鸞聖人が説法しておられる姿である。

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「弁円済度(べんねんさいど)」

「15」 「板敷摂化(いたじきせっけ)」〈右〉・「弁円済度」〈左〉

この図は稲田でのこととされている。山伏弁円が稲田の草庵に多くの門弟が集まるのをねたんでいた。或る時、板敷山で待ち伏せして親鸞聖人を害せんとしたが果せず、ついに草庵へのりこんで来るというものである。
図中右側は、板敷山の峠で弁円一味が親鸞聖人を待ち伏せしているところ。
図中左側は門を入ってすぐに弁円と、それを迎える親鸞聖人(杖をついている)を描きつづいて、縁先に上って聖人の前で前非を悔(く)いる弁円と、室中で暖かく迎える聖人とを描いている。

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「箱根示現(じげん)」

「16」 「箱根示現」〈右〉・「洛陽訪問」〈左〉

文暦(ぶんりゃく)元(1234)年62才の頃、親鸞聖人は20年間住みなれた東国の地を離れて故郷の京都に帰ることになった。この話はその途中、箱根での出来事で、箱根権現(ごんげん)の示現にあづかった神官に饗応(きょうおう)されたというものである。右図は神官宅前で神官が帰路途中の聖人一行を迎える場面で、黒衣の三人中一番前が親鸞聖人である。
図中左側は、帰京後、聖人が五条西洞院に居を占めておられた或る時に、関東より大部の平太郎が訪ねてきて、公務(くむ)により熊野権現に参詣せねばならなくなったことを相談にしているところ。室内におられる聖人に対座して縁先にいるのが平太郎、その手前側方に座しているのは蓮位房である。

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「熊野示現」

「17」 「熊野参詣」

熊野権現に参詣した平太郎が社殿でうたたねをしているうちに霊夢(れいむ)を感じる。絵は上下に分かれ、下の社殿中の右端でうたたねしているのが平太郎、上はその時の霊夢の内容を表したものである。本殿中の束帯姿が熊野権現で、それに対座するのが親鸞聖人である。定められた神拝の形式を守らずに、不浄の身で参詣したことに対する権現の咎めに、聖人が忽然(こつぜん)と現れて返答するところである。

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「洛陽遷化(らくようせんげ)」

「18」 「病床説法」〈右〉・「洛陽遷化」〈中〉・「入滅葬送」〈左〉

親鸞聖人は弘長(こうちょう)2(1262)年11月28日、弟尋有(じんう)の住する三条富小路(とみのこうじ)の善法院(ぜんぽういん)で90才の生涯を閉じる。この図は三つの場面に描き分けており、図中右下は病中見舞、図中右上は入滅、図中左側は葬送で、御遺骸を輿に納め延仁寺(えんにんじ)の荼【田+比】所(だびしょ)へお送りするところである。

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「葬送荼毗(そうそうだび)」

「19」 「葬送荼毗」

御遺骸を延仁寺で荼毗にふしているところである。図中右下には、親鸞聖人の棺の左右に多くの門弟が寄り添って嘆き悲しむ様子が描かれ、図中右上には、葬列の先払い役である赤装束に白頭巾の犬神人(いぬじにん)(宝来(ほうらい))が描かれている。
図中左は、聖人の御遺骸が荼毗に付され、一門・弟子・同行が悲しむ有様である。

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「本廟創立(ほんびょうそうりゅう)」

「20」 「本廟創立」

親鸞聖人の滅後10年を経た文永(ぶんえい)9(1272一二七二)年、娘覚信尼(かくしんに)の他、関東門弟等の協力により墓所が改められ、聖人の御真影を安置した大谷廟堂が建立された。この大谷廟堂が本願寺の原点である。その場所は今日でいう、知恩院山門の北、崇泰(そうたい)院の境内である。蓮如上人の時代の寛正(かんしょう)6(1465)年に延暦寺衆徒の手で破却されるまで、200年に及び教団の中心として門弟に崇敬(そうきょう)されてきた。今日、この地を「元大谷」と呼んで、多くの門弟が聖人在世の昔を偲んでいる。
図中、堂外で一人掃除をしているのが、『御絵伝』のもとになっている『親鸞聖人伝絵(でんね)(御伝鈔)』の著者、覚如(かくにょ)上人であると言い伝えられている。

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参考資料

高松信英・野田晋『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』(東本願寺出版部)
平松令三『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』(本願寺出版社)

発行

真宗大谷派名古屋教区・名古屋別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要事務局

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