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【NEW】コトナルヲナゲキ 『歎異抄』歎異篇


一人の門徒が歎き吐露した「先師ノ口伝ノ真信ニ異ナルコト」(前序)。
「歎異篇」のことばは、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ私たちの姿勢を問いただすものであります。
ぜひ一読ください。

「同朋会」、学習会等の資料にも活用ください


 目次


「中  序」 如来の義と歎異の精神     三明智彰
「第11章」 実感の仏道と観念の異義    延塚知道
・「第12章」 学びの本質          海 法龍
「第13章」「本願ぼこり」と「宿業」    林 智康
「第14章」 罪滅の念仏から、回心の念仏へ 松井憲一
・   親鸞聖人とその門弟            草野顕之
「第15章」 往生について         中村 薫
「第16章」 回心ということ-コペルニクス的転回ー 松田正典
「第17章」 すでにして悲願います     西本祐攝
「第18章」 世間の欲心と真実信心     武田未来雄
「後 序➀」 賜る信心だからこそ難信だ   池田勇諦
「後 序②」 如来広大の恩徳        池田勇諦

※講師プロフィールは名古屋別院「講座案内」(2017年4月~2018年3月発行)からの転載



如来の義と歎異の精神   三明智彰 氏

[中 序]


  「中序」のある『歎異抄』第十章は、前半をまとめ後半を始めるという、成上起下の役割を持っています。
 まず、「念仏には無義をもって義とす。不可称・不可説・不可思議のゆえに」という親鸞聖人のお言葉が掲げられています。「無義」とは、私どもがあれこれはからって、これは正しいことだとする人間の義を否定して、如来の「義」を表す言葉です。人間のはからいが介入できないことこそが如来の義であるということです。その理由は「不可称・不可説・不可思議のゆえに」と示されました。称えることも、説くことも、思議することもできない如来の徳に、私どもの思慮分別を入れることはできないということです。このように『歎異抄』の前半にあげられた親鸞聖人の教訓九か条が総括されたのです。
 続いて「中序」には、「そもそも親鸞聖人が生きておられた昔、志を同じくして、親鸞聖人の居られる遼か遠い京の都まで一生懸命に歩いて行って、信心を一つにして真の浄土に心をかけた同朋は、同時に親鸞聖人の御意趣を承ったけれども、その人々に伴って念仏申しておられる老いも若きも数え切れないほど多くの人々がおられる中に、親鸞聖人の仰せでない異なった義を近ごろは多く仰せられ合っておられるよしを、伝え承っています。そのような根拠のない異義のことをこれから書きます」(取意)と述べられています。
 「無義をもって義とする」まことの道理に対して、なお義を立てていこうとするのが、聖人の仰せでない「異義」なのです。そのあやまちを正して、聖人のお心に立ち返るようにと願って書かれた本が『歎異抄』です。それは、親鸞聖人の教え子の教え子、すなわち孫弟子の世代以降に、恩師親鸞聖人の真の信心を受け取ってもらいたい願いからなのです。その姿勢は、異端排撃ではありません。年老いた師が、若者のあやまちを歎きつつ、諄々と諭し導く慈愛に満ちあふれています。それが御同朋再興の書である『歎異抄』を貫く「歎異の精神」です。

みはる としあき

1954年、青森県弘前市生まれ。大谷大学大学院博士課程真宗学専攻単位取得。大谷大学助教授などを経て、現在九州大谷短期大学学長。量深学場主宰。
【著書】『歎異抄講義』上・下、『願心の目覚め』、『阿弥陀経講話』、『親鸞の阿闍世観』(法蔵館)、『歎異の精神ー『歎異抄』聴聞記ー』(東本願寺出版)ほか


実感の仏道と観念の異義  延塚知道 氏

[第11章]


 『歎異抄』の歎異篇は、第十一章から第十八章までです。まず第十一章は、「ただ念仏して喜んでいる人に、あなたは誓願不思議と名号不思議のどちらを信じて念仏しているのかと、議論を吹きかけて、二つの不思議を明らかにしないまま、迷わすことがあってはならない」と、歎くことから始まります。
 本来、親鸞聖人の仏道の救いは、第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と、述べられています。「誓願不思議を信じて念仏する」のですから、誓願不思議と名号不思議とは、救いの実感においては別ではなく一つなのです。相対分別を破った如来の一如のはたらきを「不思議」と表現しているにも拘わらず、それを人間の相対分別に取り戻して、観念化していく所に異義が生まれます。如来のお仕事を、こざかしい人間の分別が盗んでいるのですから、異義になるに決まっています。
 この誓願不思議の方に傾いていく異義は、第十二章「勉強しなければ往生しない」とか、第十五章「凡夫のまま仏に成る」とか、第十七章「辺地の往生は地獄に堕ちる」という異義へと展開していきます。分別を超えた実感の仏道が、自力の観念や理論で武装して、先鋭化していく異義に展開します。
 一方、名号不思議に傾いていく異義は、賢い姿を示して専ら念仏を称えるというように、理論とは反対の念仏の実行へと展開していきます。それが第十三章「罪悪を畏れる」とか、第十四章「念仏して罪を滅する」とか、第十六章「自然に回心する」とか、第十八章「仏に成るのに布施の大小による」というように、賢善精進の異義へと展開していくのです。
 このように第十一章を総章にして、第十八章までの歎異篇・異義篇が展開していきますので、この章が歎異篇の中で最も大切な章になります。  この二つの異義は、古くは法然門下の「一念多念の諍い」に端を発していると見ることもできますが、いずれにしても救いの感動を、自力の分別へ取り戻した異義なのです。我々の自力が、いかに深いかを思わせられます。
 

のぶつか ともみち

1948年福岡県に生まれる。1978年大谷大学大学院博士課程単位取得。大谷大学教授を経て、現在大谷大学特任教授。文学博士。専門は真宗学。
【著書】『他力を生きるー清沢満之の求道と福沢諭吉の実学精神』(筑摩書房)、『教行信証ーその構造と核心ー』(法蔵館)、『浄土論註の思想究明ー親鸞の視点からー』(文栄堂)、『無量寿経に聞く 下巻』(教育新潮社)、『講讃 浄土論註』第1・2・3・4巻(文栄堂)他


学びの本質  海法龍 氏

[第12章]


 「親鸞聖人の教えを理解するために『歎異抄』を勉強しています。他にどんな仏教書を読めば良いでしょうか」
「そうですか。それはそれで善いけれど、聞法は勉強ではないですよね」
「だけど理解しなければならないから、言葉の意味もわからずに聞いていても、わからないじゃないですか」
「そうですけど、教えの言葉は、わかるわからないを超えて聞こえてくる、響いてくるんではないですか」
「そこがわからないから勉強して学んで、きっと意味がわかってくると聞こえてくるし、響いてくるんではないですか。仏教は思想だから、経典から七祖から、親鸞聖人、蓮如上人、いろいろ触れながら勉強してみる、それが聞法じゃないですか」
 この方のおっしゃっていることは、決して間違っているわけではないと思います。学問研究することは大切なことです。ただ、どこに立って学んでいるのかという問いは、そこにはないような気がします。わかるか、わからないか、が前提になっています。わかる自分は認められるし、わからない自分は認められない。無意識にいつも自分に対しても他者に対しても、善悪という○×をつけながら学んでいることになります。 
   『正信偈』に「一切善悪凡夫人」とあります。私たちの根っこの問題です。勉強してわかった私は、善き私・優れた私になって、いつの間にか気づかないところで「名聞利養のおもいに住」(『真宗聖典』六三一頁)しているのです。そこには自分に対して何の疑問も痛みもありません。だから他者に対しても不遜になります。
 『歎異抄』第十二章の課題です。「経釈を読んでちゃんと学ばなければ往生できない」、つまり救われない、信心を獲られないという異義です。でもそういう聞き方、学び方は私たちの中にあります。生き方もそうです。信仰にとって学ぶということが、どういう意味を持つのか。信心とは、学問して知識教養を高めて獲るものであるという理解が「不足言」、つまり大きな間違いだと厳しくご指摘くださっています。
   聞法とは何か、信心とは何か、信仰にとって学ぶということはどういう意味を持つのか。私たちの教えに向き合う立ち位置を、根本的に問いかけている一段です。   
 

かい ほうりゅう

  1957年生まれ。熊本県天草市生まれ。大谷大、大谷専修学院卒業。現在、真宗大谷派首都圏教化推進本部員。神奈川県横須賀市・長願寺住職。大谷派首都圏広報誌『サンガ』編集委員。東本願寺同朋会館教導。
【著書】『大きい字の法話集』『僧侶31人のぽけっと法話集』(共著)、日めくりカレンダー『凡夫のつぶやき』『一語一会』(監修)、『通夜葬儀のこころ』『中陰のこころ』『法事のこころ』(東本願寺出版部)、『今、南無阿弥陀仏に生きる』(大谷婦人会)ほか。


「本願ぼこり」と「宿業」  林智康 氏

[第13章]


 「第十三章では「本願ぼこり」と「宿業」を中心に考察していきます。本願ぼこりとは、阿弥陀仏の本願に甘えてつけあがる意味です。阿弥陀仏はすべてのものを救うが、特に罪が重いものを救うことを悪人正機といいます。これは「師訓篇」第三章の内容と深く関わっています。この悪人正機の教えを誤解しているのが造悪無碍の異義です。これは思うままに悪事をはたらき、悪業を重ねることこそ、弥陀の本願にかなうとする考え方です。親鸞聖人は、「くすりあり毒をこのめ、とそうろうらんことは、あるべくもそうらわず」(『親鸞聖人御消息集』)と、この異義を誡められています。
 しかしここでは、唯円房は本願ぼこりを批判する人たちを逆に批判し、念仏を自分の善根として悪を恐れ悪を廃し、善を実践しようとする専修賢善の異義として誡めています。すなわち、これは本願を疑い、善悪の宿業を心得ていないからと述べます。香月院深励師は本願ぼこりを「邪見に落ちたる本願ぼこり」と「信心を得たる本願ぼこり」に区別し、後者の本願ぼこりを本願にたよるという意味で肯定的に解釈されます(『歎異抄講林記』)。また妙音院了祥師はこの章を「禁誇本願章」と述べています(『歎異抄聞記』)。
 宿業とは、宿世(過去世)においてなされた善悪の行為が、現世の行為に及ぶ潜在的な力をいいます。親鸞聖人は阿弥陀仏の智慧の光明に照らされた自己の罪悪の自覚を宿業と捉えられました。現在の苦楽がすべて過去世の業報であり、その業の深さは人間の知恵では知ることができない、ただ阿弥陀仏の本願の心にうなずくところに与えられた信心の内容とされています。さらに機の深信(罪悪生死の凡夫)と法の深信(本願の力用)という二種深信を通して、宿業の問題を考えたいと思います。
 唯円房は、この章の中で親鸞聖人の御消息類や聖覚法印の『唯信鈔』の文にも言及して、宿業について深く述べています。
 

はやし ともやす

1945年福岡県に生まれる。龍谷大学大学院文学研究科博士課程真宗学専攻修了。浄土真宗本願寺派宗学院卒業、現在 龍谷大学名誉教授、浄土真宗本願寺派勧学、中央仏教学院通信教育部講師、福岡教区嘉麻組光円寺住職。
【著書】『蓮如教学の研究』『歎異抄講讃』『顕浄土真実信文類講讃』(以上永田文昌堂)、『浄土和讃』(探究社)、『真宗和語聖教ー一念多念文意・唯信鈔文意・尊号真像銘文ー』(百華苑)ほか


罪滅の念仏から、回心の念仏へ  松井憲一 氏

[第14章] 


 この章は、罪を消そうとして、念仏することを問題にします。それは、十悪五逆の罪人が南無阿弥陀仏を称えることで、罪が除かれ救われるという『観無量寿経』下々品の経文を証拠にして、数多くの念仏を称える功徳で、多くの罪を消して往生しようという主張です。罪を消す力がないと知りながら、念仏する自分の力で罪を消そうとするのは、矛盾した傲慢な心です。経文の意味は、罪の重さをご縁に念仏を勧めるのですから、「十悪五逆の(罪の)軽重をしらせんがため」であります。だから、罪滅ぼしにそろばん勘定で念仏するのは、「いまだわれらが信ずるところにおよばず」といわれます。
 念仏の功徳は、罪深き者が「弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわり」「すでに定聚のくらいにおさめ」られていることの目覚め、すなわち回心することにあります。だから、いかに罪が深かろうとも「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」と、箸にも棒にもひっかからない無力の者が、はからずも本願に値遇した、その喜びを表白しようといわれます。
 滅罪を願って念仏するのは、「いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか」と業縁存在を忘れた我が身知らずの者であります。だから、罪を畏れ福を頼む心に浸りきっているわれらが、罪の沙汰を超える念仏に出遇うには、「摂取不捨の願」に照らされて回心懺悔するしかありません。
 それで、最後に「つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり」と、念仏滅罪の異義は、自力の分別心の固執であって、他力の信心に触れない姿だと厳しく誡められるのです。
 

まつい けんいち

 1940年生まれ。三重県に生まれる。1967年大谷大学大学院博士課程修了。大谷大学助手を経て、元大谷大学非常勤講師。道光舎主宰。
【著書】『歎異抄講話 聖人のつねのおおせ(上)・異義をなげく(下)』(法蔵館)、『親鸞聖人の正信偈に人生を聞く』、『親鸞教徒の仏跡参拝』、『願いに生きる』(白馬社)。


親鸞聖人とその門弟  草野顕之 氏

 


 親鸞聖人が、謫居地の越後から関東へ向かわれたのは建保二(一二一四)年、四十二歳の時であった。以後、常陸国(現、茨城県)を中心に開教活動を続けられ、そこに多くの門弟が誕生した。約二十年の活動を終えられ、郷里の京都へ戻られても、御消息によって関東門弟の法門上の疑義に答えられた。また、熱心な門弟は京都の聖人を訪ねて、親しく教えを受けたこともあった。『?異抄』を著した河和田唯円もその一人である。
 『?異抄』は、そうして京都へと歩みを運び、聖人から親しく聴聞した者のなかに、「上人(聖人)のおおせにあらざる異義」(中序)を唱える者がいると伝え聞き、それは「いわれなき」(同前)こと、すなわち誤ったことであると歎じている。ところが、『?異抄』はこうした「異義」を唱えた人名を記しているわけではないので、その「異義」がいかなる背景のなかで唱えられるに至ったのかを知ることはできない。そこで、親鸞聖人の御消息や門弟等交名を始めとする諸資料に、聖人の門弟としてあげられている幾人かを取り上げ、その社会的位置や、もともと立っていたであろう宗教的立場について検討する。
 二十四輩の第一、第二番目に挙げられ、御消息にもその名が見られる高田真仏や横曽根性信は「在地武士」であるが、同じく御消息に見られる円仏坊は「下人」であるなど、門弟の社会的位置には大きな幅があった。故に、それぞれが聴聞する素地にもかなりの幅があったことは容易に想像できる。また、二十四輩の第三鹿島順信は鹿島神宮の大宮司家の出身であったり、先の性信の門弟には「大勧進」や「勧進沙門」を名乗る勧進聖が見られるように、その宗教的立場にも種々相があった。それ故、親鸞聖人の教えがそれぞれの宗教的立場に沿って受用された可能性も指摘しうる。  こうした門弟の性格を検討することにより、「上人(聖人)のおおせにあらざる異義」が生み出された要因の一端を知ることができるのである。
 

くさの けんし

1952年福岡県生まれ。72年大谷大学文学部史学科入学。同大学大学院修士課程を経て、81年同大学大学院博士後期課程を満期退学。大谷大学専任講師、助教授を経て、2000年に大谷大学教授。10~16年同大学学長。専門は日本仏教史(中世)・真宗史。現在、大谷大学文学部教授、真宗大谷派嗣講。
【著書】『真宗教団の地域と歴史』(清文堂出版)、『親鸞の伝記ー『御伝鈔』の世界』(筑摩書房)、『戦国期本願寺教団史の研究』(法蔵館)


往生について  中村薫 氏

[第15章]


 『歎異抄』第十五条の中心課題の一つは往生ということであろう。その往生について現世往生か来世往生かの異なりについて学界でも二分している。ただ、親鸞聖人は往生を二分しているとは思われない。真言の即身成仏、法華の一乗などの難行上根の人々はそれでよいかもしれない。しかし浄土真宗の他力浄土の宗旨は、信心決定の道である。そこで明らかにしているのは順次生のさとりである。第五条でも述べられているが、現在、過去、未来の三世に渡ってさとりを開くのである。そこが重要な点である。
 親鸞聖人においては、現生に正定聚に住して必ず滅度に至る本願の展開として往生を了解された。それは今現在浄土に生まれることは定まっており、未来は必ず成仏するということである。それを如来の本願のはたらきと言われるのである。
 親鸞聖人は、「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」(『真宗聖典』六〇七頁)と言われている。老いをむかえた親鸞聖人は、弟子の人に先に「浄土にて必ず待っています」と言葉をかけて、無上涅槃の浄土を示唆していかれたのである。
 これを素直に読めば、来世往生の立場でおられるように見える。しかし、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」(『真宗聖典』六三一頁)というのが浄土真宗の浄土往生であることに間違いはない。親鸞聖人は、仏になることよりも、本願を信じて念仏することに重きをおいておられるのである。
 親鸞聖人は「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」と言われる。浄土真宗において大事なことは、今生において本願を信ずることである。そして、彼の土にしてさとりを開くことである。そのとき、彼の土を今生の生と見るか、死後に至る浄土と見るかによって変わってくる。  今、先人の言葉が思い出される。「如来我となりて我を救いたもう。如来は我なり、されど我は如来にあらず」。  真宗の往生はすべて如来の一人の働きである。
 

なかむら かおる

 1948年愛知県西尾市生まれ。大谷大学卒業、大谷大学大学院博士課程修了。現在、同朋大学名誉教授、一宮市・養蓮寺住職。
【著書】『いのちの確かめ』『出会いそして別離のいのち(中村薫講話集6』(法蔵館)、『中国華厳浄土思想の研究』(文理閣)など


回心ということ ーコペルニクス的転回ー   松田正典 氏

[第16章]


 『歎異抄』第十六章には、「回心」についての誤った解釈の流布を、著者・唯円房が悲歎なさり、これを正しておられます。「断悪修善」の念、反省の念ではないと。
 人は廃悪修善を揺り籠として育ちますから、この心は大変深いと思われます。譬えれば卵の殻です。殻の中にいつまでも留まればやがて腐ってしまいます。現代人は、うつ病シンドローム、ニヒリズム・シンドロームを抱えています。「自力のこころ」という固い殻の中で苦しんでいます。
 親鸞聖人は「回心というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり」(『真宗聖典』五五二頁)と教えられます。『唯信鈔文意』に示されるこの「自力のこころ」は人間性そのものです。「ひるがえし、すつる」とはこの心が無くなるということではありません。お念仏の功徳によりこの心に囚われる念が翻され廃ることです。
 私は、理論物理学の研究者として生活して参りました。科学研究は、日夜、定散心で未知なる世界に挑戦し続ける世界です。それは譬えれば、前人未踏の高峰への挑戦です。滑落の不安と焦燥を抱えながらの自己との格闘です。
 親鸞聖人は、ご子息義絶事件の後、次のように「愚禿悲歎述懐」されています。
 罪福信ずる行者は 
  仏智の不思議をうたがいて 
  疑城胎宮にとどまれば 
  三宝にはなれたてまつる(『真宗聖典』五〇五頁)
 現代に生きる私に照らして申せば、名聞・利養・勝他の生活者が「罪福信ずる行者」です。名聞は社会生活、利養は経済生活、勝他は戦力外通告社会を生きることです。それが凡夫の正体です。
 親鸞聖人の教えられる「自力のこころ」は凡夫の日常生活であることが知らされます。その日常の営みは変わらないのですが、営みそのものが小さな殻の中の世界の営みと知らされます。この殻を通して、大いなる世界、如来大悲の誓願に出遇うことができるのです。
 曽我量深先生は「われら凡夫は、定散心を場として如来に遇う」と、ご述懐なさっています。(『歎異抄聴記』東本願寺出版)
 ヘレン・ケラー女史は、自叙伝の中に次のように語っておられます。「絶対の闇の中で、どうか私に光を与えてくださいと叫んでいました。サリバン先生は、私の所に光を届けるために来てくださいました。ものには名前がある、ことばがある。ことばはいのちであり、世界であり、何よりも光そのものでした。サリバン先生にお遇いする前と後との相違を想うとき、自分のことながら驚かずにはおられません」。
 これを、哲学的にはコペルニクス的転回といいます。世界観が一八〇度変わることです。その故に「回心といふこと、ただひとたびあるべし」なのであります。 
 

まつだ まさのり

1939年岡山県津山市に生まれる。理学博士(素粒子物理学)。1984年、広島大学教授、同大学院教授。2002年3月同退官。2006~2009年くらしき作陽大学仏教文化研究センター長。現在、くらしき作陽大学客員教授、広島大学名誉教授、真宗保育学会理事、(財)広島大学仏教青年会評議員会長。
【著書】『いのちの伝承ー若者に語る仏教ー』『生きるための歎異抄』『真実に遇う大地』『現代に生きる歎異抄』【共著】『科学文明を生きる人間』(以上、法蔵館書店)、『歎異抄後序のこころ』『浄土真宗の救い』(いずれも共著、自照社)、『平和と教育』(東本願寺出版部)ほか


すでにして悲願います  西本祐攝 氏

[第17章]


 親鸞は『教行信証』「化身土巻」で、至心発願の願(『観経』の意)と至心回向の願(『阿弥陀経』の意)によって、この願いと教説が私たちを真実に導くための如来の方便という意味をもつことを顕(あきら)かにする。前者は様々な行によって往生することを説く教え、後者は自ら称えた念仏の功徳によって往生することを説く教えであり、それらによって浄土の辺地に往生することが説かれる。
 『歎異抄』第十七章では、この「辺地の往生」を説く教えについての異義が悲?される。その内容は、辺地の往生を遂げる者は最終的に地獄に堕ちると主張するものであり、同じく念仏の教えに生きる者の中の「学生だつるひと」によって言い出された異義である。
 辺地の往生が説かれるのは、念仏往生の教えに出遇いながらも本願力による往生を疑うあり方、どこまでも自力の延長上においてしか仏道を求めることを離れられない根深い自力執心が私たちにあるからであり、その問題を浮き彫りにし、ついには真実報土の往生を遂げさせる如来の悲願を説く教えであると親鸞は顕かにする。親鸞は「すでにして悲願います」(『真宗聖典』三二六、三四七頁)とも言い、前述の二願を自力執心の根深き衆生を大悲しおこされた如来の悲願であると確かめている。
 この親鸞の教えをうけて『歎異抄』の著者は、第十一章に「信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり」と記す。第十七章では、信心の欠けている行者は辺地に生まれ、本願を疑う罪をつぐなう後に、真実報土の往生を遂げるという。
 衆生の自力執心は根深く、本願を信受する者は少ない。だからこそ、方便化土に多くの者をすすめいれ、ついには真実報土の往生を遂げさせようという如来の大悲方便として辺地の往生は説かれる。
 その辺地の往生を遂げる者が最終的に地獄に堕ちると主張することは、どのような経論にもない異義であり、ましてそれは如来大悲の教えを嘘偽りの言葉としてしまうことなのだ、という厳しい言葉で第十七章は結ばれている。
 

にしもと ゆうせつ

1975年熊本県生まれ。1997年熊本大学卒業後、2004年大谷大学大学院博士後期課程満期退学。2007年博士号(文学)取得、大谷大学専任助教授就任。2011年大谷大学講師。
【著書】『臘扇記注釈』(法蔵館)共編、『清沢満之全集』(岩波書店)編集、『建学の精神ー大谷大学で学ぶ』(大谷大学)、『清沢満之と近代日本』(法蔵館)共著


世間の欲心と真実信心  武田未来雄 氏

[第18章]


 私たちは、例えば「費用対効果」と言われるような、常に何かを為して、その行為の結果を求めるあり方で日常生活を過ごしているのではないでしょうか。それは何よりも経済を中心とする生活にどっぷりとつかり、身についてしまった考え方であるかもしれません。そして時には、そのような発想で宗教の救済をも求めているのではないでしょうか。
 『歎異抄』第十八条で述べられている異義は正にそのような考えで仏道を求めるあり方が批判されています。そこでは「寺院や僧侶などへの、寄付やお布施の多い少ないによって、大きい仏になったり、小さい仏になったりする」と言われ、それに対して『歎異抄』の筆者は、繰り返し「決してそういうことは説いてはいけない」と言って、「根拠のない大間違いである」と厳しく批判されるのです。
 なぜ、これほどまでに厳しく言われるのでしょうか。もし異義の言うようにお布施の量によって仏に成るというのであるならば、お金に余裕のある、裕福な人は仏に成れるが、今日明日食べていくのにも精一杯な人々は、その救いの道から除外されてしまいます。それでは、いわゆる「いなかのひとびと」と共に過ごし、一切が平等に救われる道を説かれた親鸞聖人の願いに反してしまいます。
 また、ここでは自らの計らいによって仏の分量を定めているということがあります。そもそも仏には大きい小さいはないのです。阿弥陀仏の本願は一切の人々を平等に救うことを願い、仏はその願いを実現するために様々な形をとって表れてくるのです。それなのに私たちは自分たちの思いやはからいによって、仏の大きさをも定めようとしているのではないでしょうか。この条では、私たちにとって大切な仏の有り様が端的に詳しく述べられ、その救いには見返りを求める投資ではなく、「信心」こそが大切であることが述べられています。
 この文によって、私たちは日常の生活をどのような考えで過ごし、本願念仏の仏道をどのようにとらえているのかが問いなおされてきます。じっくりと丁寧に拝読していきたいと思います。
 

たけだ みきお

1970年、京都府生まれ。2001年、博士(文学)学位取得。2004年、愛知新城大谷大学専任講師。2008年~2010年、同大学准教授。現在、真宗大谷派教学研究所所員、京都教区浄泉寺住職。
【論文】「親鸞における時の問題」(『大谷大学大学院研究紀要』第14号)、「今乗二尊教についてー浄土門広開における時の問題ー」(『親鸞教学』第73号)、「親鸞における時の問題ー曽我量深の時間論を中心としてー」(『真宗教学研究』第23号)、「親鸞における往生表現の課題ー特に〈いたる〉を中心としてー」(『教学研究』第158号)他


賜る信だからこそ難信だ  池田勇諦 氏

[後 序➀]


 「右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか」以下は、従来「後序」とよばれてきており、本抄を著した作者の?異の精神がもっとも際立ち、読む者をして痛く胸をうつ。
 それだけに留意すべき複数の段落を見るけれども、いまは二回(本紙および来月号)で読むという制約のなかで、次の二つに要約してのべることとしたい。
 一つは、信心一異の相論に「法然聖人のおおせ」たる「如来よりたまわりたる信心」なるがゆえに、法然・親鸞二師の信心が同一だと言う。「たまわる」とは。
 いま一つは、「信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめ」た作者の衷情が、「聖教には、真実権(ごん)仮(け)ともにあいまじわ」ることから、「権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人の御本意」と強く訴えている。「権実真仮」の見ひらきとは。
 前者に聞かねばならぬ一点は、信心が私にとって「如来よりたまわりたる信心」だからこそ、難信だということ。なぜか。私心で信じたり疑ったりする信心でないからだ。すでに親鸞聖人は真実信心の獲得しがたき理由を、如来回向の信心にもとめられている(『真宗聖典』二一一頁参照)。
 聞法は自分の物差しで聞くことでない、自分の物差しを聞くことだ。自分を固めること、ガードすることでない。まったく逆様、自分が破られることだ。その意味で「たまわる」とは、奪われること。「大悲は大非なり」、摂取せんがための大いなる否定力だ。
 この自覚を後序は、善導大師の指教「機の深信(じんしん)」として、「聖人のつねのおおせには……親鸞一人がためなりけり」、および「善悪のふたつ総じてもって存(ぞん)知(じ)せざるなり」とのご述懐を引く。自我としての私が真実を求め、真実に生きることについて、いかに虚偽であり、無力であるかを告げる「決定(けつじょう)して自身を深信する」(『真宗聖典』四四〇頁)のご述懐に、「決定(けつじょう)してかの願力に乗じて深信する」(同)、すでに本願力に乗托して生かされて在る身の事実を知らされるのであった。
 

いけだ ゆうたい

1934年三重県桑名市生まれ。東海同朋大学卒業。大谷大学大学院博士課程修業。同朋大学教授、同大学学長、同大学特任教授を経て、現在、同大学名誉教授。真宗大谷派「講師」。三重教区・西恩寺前住職。
【著書・論文】『改悔文考察 真宗教化学の課題』、『御文勧化録』、『真実證の回向成就:『顕浄土真実證文類』述要』(安居講録)。『真宗創造ー『御文』の発遣』(筑摩書房)、『シリーズ親鸞 第八巻ー親鸞から蓮如へ』『真宗の実践』(東本願寺)ほか
 

如来広大の恩徳  池田勇諦 氏

[後 序②]


 「先師(親鸞)の口伝の真信に異なる」(『真宗聖典』六二六頁)異義とは、「自見の覚悟」でしか聞くことのできない事実に必然するありかたと言える。ならば異義者はどこかの誰かの沙汰ではない。自分自身を異義者のうえに重ねることなくしては、本抄は読めないにちがいない。
 蓮如上人の「たとい正義たりとも、しげからんことをば、停止すべき由候う」(『真宗聖典』八七九頁)の言葉を想起するが、「しげからん」とは、固執することだろう。たとい正しいことであっても、そこにとどまり固執すれば、自己主張に変質するほかはないからだ。異義・異安心を言われるものは、すべてそう言えないか。
 獲信の方途はただ一つ「聞其名号信心歓喜」の「聞」に極まるが、その内実を先覚は「仏教は畢竟内観の一道」と指示している。真の主体(私)となる「信心」は、外に求めて得られるものでない。必然的に自己の内面に求める。だが、そこにおける死角は、内にとどまることだ。内にとどまれば「内観」も主観に堕し、個人意識を超えられない。
 その壁が炙りだされるとき、内を自覚的に突き抜けた「中」がひらかれる。「中」は中心、つまり真の主体の獲得である。その主体は、世俗(自己・社会)の諸問題が信心を問う教材として見直す感覚として歩み出す。その意味で真の内観は、内を破った「外観」とならずにはいない。
 作者が「真実権仮」の判決を提起したことも、実に「自見の覚悟」に立ちとどまる・固執することからの出離、「ひとたびの回心」の共有化にほかならなかった。
 親鸞聖人は「仮」を実践的に「虚仮」と「権仮」の二意でうけとめている。それによって「仮」が何よりも通路(過程)として、課題的であることを教えている。もし通路を目的として「真」だと固執すれば、たちまち「虚仮不実」の「虚偽」と化し、それが過程と知れるとき「権仮方便」と転化して、「真実」の具体的はたらき、「如来広大の恩徳」(『真宗聖典』三二四頁)にほかならなかったことに。
 最後に一言、本抄末尾の「承元の法難」の記録は、この「権実真仮」の批判精神と切り離して見ることはできないだろう。
 

いけだ ゆうたい

1934年三重県桑名市生まれ。東海同朋大学卒業。大谷大学大学院博士課程修業。同朋大学教授、同大学学長、同大学特任教授を経て、現在、同大学名誉教授。真宗大谷派「講師」。三重教区・西恩寺前住職。
【著書・論文】『改悔文考察 真宗教化学の課題』、『御文勧化録』、『真実證の回向成就:『顕浄土真実證文類』述要』(安居講録)。『真宗創造ー『御文』の発遣』(筑摩書房)、『シリーズ親鸞 第八巻ー親鸞から蓮如へ』『真宗の実践』(東本願寺)ほか
 
 

 信道2017(信道講座年間講義録)の紹介

 本ページ「コトナルヲナゲキ」は、2017年度「信道講座」の講師に、講演に先立ち、当日お話しされる内容の趣意を「名古屋御坊」新聞に掲載するために執筆いただいたものです。
 当講座でお話し(約90分講演)された講義録は「信道2017」(年間講義録・2019年春発刊予定)に収載されています。どうぞ一読ください。
※本ページ(上記内容)も掲載されています。


  冊子「信道」(『信道講座』年間講義録)並びに、別院発行書籍の紹介       

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毎月第二日曜日午前10時~12時、聴講料300円。会場:名古屋教務所1階議事堂(東別院境内)

1997年、前身である信道会館教養講座から名古屋別院に移行し、名称を改めて開催されることとなった「信道講座」。この「信道」とは、「信は道の元とす、功徳の母なり」(『華厳経』)からその名をいただき、今日まで120年にもわたって相続されてきた講座です。真宗・仏教のみならず、歴史や哲学の分野からも専門的な講師が講話されます。

                            
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