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法語

  • 2014年1月

    雑行を棄てて本願に帰す

    『教行信証』化身土巻(聖典399頁)

    この頃、よく耳にするのは「家族葬」という言葉である。もっとも、そこに決まった形はない。どうやら「家族葬」とは、少なくとも町内会に回覧を回すのを控えたいということのようである。お知らせすれば「ご近所の皆さんに迷惑がかかるから」というのがその理由だ。たしかに葬儀に参列すれば「手ぶらで」というわけにはいかない。人間関係の煩わしさもある。しかし、「急なことでお困りでしょうから」と、助け合いの心で出かけていくのがこれまでのお葬式でした。

    私たち人間が失くしてはならないものは助け合う心ではないでしょうか。けれども、サービス業が発達した今の世の中では、お金さえあれば何でもできるかのような錯覚に陥ることがあります。この頃は、お葬式もその中に含まれてきたと言ったら言い過ぎでしょうか。

    「雑行を棄てて本願に帰す」とは、法然上人を通して本願念仏の教えに出遇われた親鸞聖人のお言葉です。「選ばず、嫌わず、見捨てず」、私たちにどこまでも寄り添う心が如来の本願です。一方、私たちは、何でも自分に都合の良いように「選び、嫌い、見捨てて」生きていこうとする。そのすべてが雑行です。親鸞聖人は、如来の本願に出遇って、そんな自分のあり様をいのち終わるまで問い続けられた方でした。

    時代とともにお葬式の形は変わります。人の心も変わります。けれども、人間の死を目の前にして、「選ばず、嫌わず、見捨てない」如来のお心を知らずしては、お見送りもかなわぬことだけはいつの時代も変わりません。どのような形であれ、私たちにとってお葬式が本願念仏の教えに出遇う大切なご縁である事を忘れてはならないと思う。

    2014年1月 研究部門 幹事 小川 文昭

  • 2013年12月

    慙は人に羞ず。愧は天に羞ず。これを慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす。

    『教行信証』信巻・「涅槃経」梵行品(聖典257頁)

    近所のスーパーには道路を挟んだ駐車場がある。道路には駐車場へと渡る横断歩道があり、通りかかる時は特に気をつける。まずは歩行者の有無、次に後方の車に…。免許を取った時には、横断歩道前に歩行者がいる時には「停車して歩行者を渡す」と習ったのだが、昨今は後ろの車の動向に注意しないことには、下手すると自分が追突されてしまう。思い出すのは横断歩道で停止している私の車のルームミラーに映った後方からの睨みつける目線。怖っ...。

    思い出すと言えば、専任教員をしていた頃のこと。私が教員をしていると知った時の周囲の言葉は、「この頃の子どもは大変でしょう」だった。「色々ありますけど、全然大変なんかじゃないですよ」と答えた時の怪訝な顔。「大変と言えば大人の方がもっと面倒です」と言葉を重ねた時、安心したように「モンスターペアレントとかいるそうだから、そうだよね」と会話は続く。テレビの見過ぎと言いたくもなるが、実際、保護者から恐喝まがいの言葉を受けた身としては、軽々に否定も出来ない。でも、やっぱり、面倒なのは子どもより年齢(だけ?)を重ねた大人。「色々あったけど、なんとかやってきた」という自己肯定の思いは、子どもとは比較にならない。

    昔々、きちんと年齢を重ねた大人は「お恥ずかしい」という言葉を使いました。何に対して恥ずかしいのか...。それは「これほどまでに自分を思って下さるはたらき」に対してだったはずです。ヒトが人間として恢復する道筋は無数にあります。「横断歩道では徐行する」のも、その一つだと思われるのです。

    2013年12月 広報部門 幹事 生田 亮

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