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教化テーマに関するコラムなど

清水康之(しみず やすゆき)氏 NPO法人自殺対策支援センターライフリンク代表『名古屋御坊』2010年3月号・4月号

-自殺対策とは生きる支援である-

仮にあなたの乗っている船が、嵐に巻き込まれて夜の海で転覆したとしよう。船から投げ出されたあなたは、きっと必死になって、岸に向かって泳ごうとするのではないだろうか。

しかし、当たりは深い闇。助かりたい一心で懸命に泳いでも、そもそも岸がどこにあるのか分からない。岸に近づいているのか不安になり、体力が奪われていく中で、やがて気力もなえてくる。「もう駄目だ」「もう助からない」と、誰だって、ある瞬間には、生きる道を諦めざるを得なくなるだろう。

自殺する人の多くが、実は、こうした心理状態にある。決して積極的に死を選んでいるのではなく、「もう生きられない」「死ぬしかない」といった状況に追い込まれて、それで亡くなっているということだ。

特に日本では、不況の嵐による「失業→生活苦→多重債務→うつ→自殺」「倒産→借金→家族の不和→うつ→自殺」といった危機経路が多い(私たちの調査では、自殺で亡くなった人は平均四つの要因を抱えていた)。社会的な問題が、人々の暮らしの問題に転化され、やがてそれが個々人の心の問題にまで転化されていく。そうした先に、多くの自殺は起きているのだ。

ただ、「自殺は不況の問題だ」ということではない。不況が多くの人の命を直撃してしまうような社会のあり方が問題なのである。端的に言えば、セーフティーネットが機能していないということになる。特に、失業対策や生活支援など、国や自治体がせっかく行っている施策に関しての情報が、当事者に届けられていないことは重大な過失と言わざるを得ない。

夜の海で溺れている人を支援するには、浮き輪をただ浮かべ、救護船の上で押し黙っているのでは不十分である。浮き輪をサーチライトで照らしてその場所を示し、助けに来たことを船上から大声で呼びかけなければ、支援策の存在すら気づいてもらえないからだ。

同様に、「支援策や相談窓口を作ったから、あとはそれを使うか使わないかは個人の勝手」という姿勢では、問題を抱えて自殺に追いこまれようとしている人たちへの支援にはならない。逆に支援策の存在を周知できれば、実は多くの人は死にたくないのだから、自殺せずに生きる道を選ぶことになる。

自殺対策とは、そうした当事者本位の「生きる支援」であり、生きる意思があれば生きられる社会を作ることである。社会的な問題である自殺に対して、社会全体で対策に取り組むことが、いま求められている。

-闇の中に光りを見いだす-

「闇が深ければ深いほど、小さな光りが明るく見える」。三十五歳で聴覚を失った作曲家、佐村河内守さんの言葉である。人は欲深く、光の中にいながらも、より強い光を求めてしまう。でも本当に大切なものは闇の中で小さく輝いているのであって、闇が深い時ほどそれを見つけるチャンスだ、というのである。ご自身の壮絶な体験の中から紡ぎだされた言葉だけあって、さすがに重みが違う。

私たちの暮らす日本社会も、いまは深い闇の中にあると言うべきだろう。振り返れば日本社会は戦後、右肩上がりの経済成長を続け、八〇年代後半にはバブル期に突入した。求める限りの光りを浴びて、まるで闇の存在を予感することのない圧倒的なまばゆさを経験してきた。

ところが、九〇年代後半にバブルがはじけ、あっという間に暗闇に包まれた。その象徴が「年間自殺者三万人」である。九七年までは二万人の前半で推移していた年間自殺者が、九八年を境に年間ベースで一挙に八〇〇〇人以上も激増して三万人を突破。今日(※1)に至るまで十二年間も高止まりを続けているのだ。

この暗闇を「チャンス」と呼ぶには、あまりにも犠牲となったものが大きかったわけで、ことの重大さを前にして絶句し、思わず目を瞑ってしまいたくなるのも無理はない。

しかし、いま私たちの社会が大きな分岐点に立っていることは、自覚しなければならない。再び一心不乱に強い光ばかりを求めて進むのか、それとも闇の中でじっと目を凝らし、そこに宿っている小さな光を見いだそうとするのか-。

私は景気回復の重要性を軽んじるつもりはない。ただそれが目的化してはならないと思う。私たちの「いのち」や「幸福感」が優先すべきものとしてまずあって、それを得るための手段として景気回復が位置づけられるようにすること。そうでなければ、いのちが経済に翻弄され続けるという日本社会の体質は変わらず、景気が悪化するたびに自殺に追い込まれる人が今後も増え続けることになるだろう。(景気の良し悪しと自殺率との間に、日本ほど相関関係の強い国はない。)

何のための景気回復なのか。景気を回復させて、その先に何を実現させるのか。私たちはいま、勇気をもって闇の中でじっと目を凝らし、そこに小さくとも確かな光を見いださなければならない。自殺の問題と真摯に向き合ったその先にこそ、「いのち」を輝かせるためのヒントが隠されているのだと、私は信じている。

※1 執筆された2010年当時。

泉 惠機(いずみ しげき)氏 元大谷大学教授・長浜教区清休寺住職
『名古屋御坊』2010年7月号・8月号

-髙木顕明師に尋ねて①-

名古屋教区に生まれて、和歌山県新宮市にある淨泉寺の住職になった髙木顕明のことは、今では多くの方に知られるようになりました。

彼が住職になったのは、一八九九(明治三二)年十二月のことであり、無実の罪で大逆事件に連座し、本山から住職を「差免(さめん)」されたのは一九一〇(明治四三)年十一月十日でした。つまり顕明の住職在任期間はわずかに十年余りにすぎません。しかし、その間に彼が為したことは、実に大きな課題を私たちに投げかけていると思います。

彼が入寺した淨泉寺は、ご門徒の三分の二ほどの人が、被差別部落の人々でした。

当時の被差別部落は、むしろ江戸時代の方が経済的に安定しており、明治の資本主義下で、最も貧しい時代を迎えていたと言っていいと思います。文字通り差別と貧困の中で喘ぎつつ生きるこれらの人達と、どのように向き合うのか。そのことに悩み、そのことを課題とした方であったようです。

多くの寺院は、住職の一家の経済を支えるためにあるような状態であったと思われます。それは当時も今も、そう変わらないかもしれません。しかし顕明は、それらの人々と、共に生きること、その苦しみや喜びを分かち合って生きること、それが住職と門徒衆とのあるべき関係ではないのかと考えていたと思われます。

そのことは、彼の残した文章に、「否ナ我々は、此の様な大勲位とか将軍とか華族とかと云ふ者に成りたいと云ふ望みはない。此の様な者になるとて働くのではない。唯だ余の大活力と人労働とを以て實行せんとするものは向上進歩である。共同(ぐどう)生活である。生産の為めに労働し、得道(とくどう)の為に修養するのである」とあることからも感じとれないでしょうか。

つまり、毎日はたらき生きているのは、世俗的に上昇していくためではなく「共同生活」のためであり「得道」のためであると。

彼は、寺と門徒のそういう関係を求めていたのではないかと思います。

寺とは何のためにあるのか。住職、寺族として生きるということは、どのように生きることなのだろうか。このような最も大切な問いを問い続けた方であったと思われます。

-髙木顕明師に尋ねて②-

髙木顕明が和歌山県新宮の淨泉寺住職をつとめたのは、一八九九(明治三二)年から約十年余りに過ぎなかったと先に述べました。

その間に彼が、住職として取り組んだことは、大きく言って三つのことでした。

その三つとは、「部落問題」・「非戦論」・「廃娼論」です。いずれも詳細は不明ですが、この三つの問題を、淨泉寺住職の使命として受け止めていたと思われます。そういう顕明の生き方の根っこに、淨泉寺門徒の三分の二を占める被差別部落の人々の存在があったのです。

「差別と貧困に喘ぐ人々と共に生きるとは、御同朋という関係を開くとはどういうことか」という問が、住職就任以来、彼の心を占め続けたと言っていいと思います。

しかし、明治期には仏教界全体がそうであったと考えられますが、真宗大谷派においても、部落内寺院は別として、ほぼ総ての寺院は、被差別部落の人々を本堂にも入れないことが多かったと思われます。法座においても、たとえ堂内に入れたとしても、末席に坐らせるか縄を張って席を限定することが多かったと思われます。また、報恩講などで御斎が出される時も、他の人々の御斎が済んだ後に、しかも別のお膳やお椀などが用いられたことが、太平洋戦争敗戦の前後まで続いていた寺院がかなりありました。

顕明は明治末期に、他の門徒衆の批判の中を、部落の門徒衆を堂内に入れ、また子供達には学用品を買い与えて本堂で勉強をおしえるなど、差別しないで接したことが、資料から分かっております。

住職としての彼の生活は、「あらゆる人々と、ことに差別や貧困のなかに生きる人々と共に生きる」という課題を担い続けた十年間であったと思われます。つまり、彼にとって仏教、真宗の教えは、まず平等な関係を開くものとして受け止められています。そこから、戦争の問題、公娼設置という、降りかかってくる具体的な問題に、如何に処すべきかというふうに、課題が広がっていったのでした。

百年余り前に彼が向かい合った課題はこのように、「非-差別」「非-戦争」「非-性の売買」という、現代の私たちに共通する課題であったと思われます。

髙木顕明の事績は、現代に生きる私たちに、孤立や困難にへこたれずに立ち向かう勇気を与えてくれます。

藤野 豊(ふじの ゆたか)氏 敬和学園大学人文学部教授
『名古屋御坊』2010年9月号・10月号

-国策に抗して患者を守った信仰①-

一八八八年七月十日、愛知県海東郡甚目寺村(現あま市)の真宗大谷派の圓周寺で小笠原登は生まれた。一八八八年というと明治二一年、国が自由民権運動を弾圧しながら、伊藤博文を中心に大日本帝国憲法の作成を進めていた頃である。小笠原は真宗京都中学で僧侶の資格を得た後、第三高等学校を経て京都帝国大学医学科に進み、一九二五年から同大学病院皮膚科泌尿器科に勤務、翌年から、当時、「癩(らい)」と呼ばれていたハンセン病の治療に従事した。

ハンセン病医療というと、国が強制隔離政策を進めていたが、とりわけ一九三一年に公布された「癩予防法」のもと、ハンセン病患者はすべて生涯に亘って強制隔離されることになった。ハンセン病患者を診断した医師は、知事に報告する義務があり、報告された患者は警察により管理され、国公立の隔離施設に収容された。

ところが、小笠原は、こうした国策に抵抗した。彼は、ハンセン病の発症は体質により左右されるもので、誰もが感染発症する疾病ではないので強制隔離する必要はないという医学的確信から隔離政策を批判し、一九三八年に皮膚科特別研究室主任となってからは、そこで通院治療や患者の外出も認める入院治療を実施した。彼に国策に反しても、こうした治療を実施させた原動力は、学問的真理に従おうとする医学者の精神と、患者それぞれの人生を尊重したいとする真宗の信仰であった。

皮膚科特別研究室では、小笠原が講師となって患者や職員を対象に『歎異抄』の勉強会を開くとともに、清水寺管主の大西良慶も毎月、講話に訪れ、さらには臨済大学や知恩院の尼衆学校の学生も小笠原を支援した。まさに京都の超宗派の仏教者が小笠原を助け、皮膚科特別研究室は国立大学の機関でありながら、仏教病院の様相を呈したのである。

当然、小笠原は強制隔離を推進する国とそれに迎合する医師たちから目の敵にされた。しかし、小笠原は信念を曲げず、戦時体制が激化するなか、自己の学問と信仰に基づく治療を守り続けたのである。

大学人として、医学者として、そして仏教者として、身を挺してハンセン病患者の人生を守った小笠原登の名前と業績をより多くのひとびとに記憶していただきたい。

-国策に抗して患者を守った信仰②-

小笠原登は、どのようにしてハンセン病患者を強制隔離という国策から守ったのか。すでに前回、述べたように、カルテに「癩(らい)」と書けば、「癩予防法」により、医師は患者を知事に報告しなければならなかったので、小笠原はあえてカルテに「癩」と病名を記さず、多発性神経炎などと他の病名を記したり、あるいは病名欄を空白にしたりしていたと言われている。つまり、小笠原は法律に反さないようにして、患者を強制隔離から守ったのである。しかし、それだけではない。さらに巧妙な方法がとられていた。

小笠原登は、「日記」を遺している。特に、一九四〇年~四四年という戦時下の日記には、隔離政策を支持する医師たちから激しい攻撃を受けるなかでの、小笠原の苦闘が記されている。それを読むと、小笠原は、京大病院皮膚科特別研究室に入院させることで、患者を強制隔離から守っていたことがわかる。小笠原は、入院患者の外出や帰省については、許可制をとっていた。つまり、皮膚科特別研究室でも患者を院内に「隔離」しているとの外観をつくっていたのである。しかし、実際には入院患者は頻繁に許可を得て外出し、京都市内の寺社参詣などもおこなっていた。食事制限されている患者が外出し、小笠原をあわてさせることもしばしばであった。また、法事や報恩講を理由にした帰省も許可されている。帰省の際は、小笠原は「感染の危険なし」という証明書を与え、帰省中に強制隔離されないように、配慮していた。

また、あるときは、帰省を希望する患者に、あなたの県では強制隔離が激しくなっているから、今は帰省しない方がよいと忠告し、帰省を思いとどまらせてもいる。外観だけは「隔離」のように繕い、実際はハンセン病患者を普通の患者として処遇していたのである。小笠原は国策と正面から衝突しないようにして、患者を強制隔離から守っていたと言えよう。

そして、その一方では、医学部生から国立の隔離施設を見学したいので同行してほしいと依頼されたときには、国立の隔離施設とは考え方が違うとして、毅然これを断っている。強制隔離政策には同意しないという小笠原の強い意志がそこにはあった。

このよな小笠原登の意思を支えたものが真宗信仰であったことは疑うことができない。親鸞聖人の御遠忌を前に、小笠原登の名前と業績が広く知られることを願って筆を擱(お)く。

安冨 信哉(やすとみ しんや)氏 大谷大学特任教授
『名古屋御坊』2010年11月号・12月号

-不安と求道-清澤満之(きよざわまんし)①-

清澤満之(一八六三-一九〇三)というと、信念の人というイメージが強いのですが、その彼を信念の獲得へと駆り立てたものは、生の不安であったといってよいでしょう。「臆病な/自信のない/消極的な態度」-。学生時代のノートにはさまれてあった紙片の末尾の一節です。

生きる現実に誠実であろうとすれば、つねに不安はつきまとってきます。人間は、その字形からも推察されるように、間(あいだ)的存在であるといわれます。生と死の間、他人と自分の間、理想と現実の間…、そのような間(あわい)のなかに生きればこそ、人は、様々な不安から逃れることができません。

幕末に生を享(う)けた清澤に、転換期の列(はげ)しい社会変動は、いかに生きるべきかという問いを抱かせ、また生来蒲柳(ほりゅう)の質であった彼に若くして死を意識させました。東京大学学生という当代きってのエリートでありながら、清澤の心の内には、深い不安が宿っていました。

その不安な生にある心の帰依処(きえしょ)として、彼に念ぜられたものは、篤信(とくしん)の念仏者であった母を通して出会った真宗の信仰であり、それを伝持してきた宗門でした。

清澤にとって、大谷派本願寺は、何よりも宗祖の立教開宗の精神が伝承されてきた場所であり、そこに宗門のいのちが見いだされたのです。

いわんや大谷派本願寺は、余輩の拠って以て自己の安心(あんじん)を求め、拠って以て同胞の安心を求め、拠って以て世界人類の安心を求めんと期する所の源泉なるにおいてをや。(「『教界時言(きょうかいじげん)』発行の趣旨」)

その安心の帰依処となるべき宗門は、幕末の蛤御門(はまぐりごもん)の変で焼失した御影堂と阿弥陀堂の再建もなり、両堂落慶(らっけい)の儀が華々しく催され、いよいよその本来のはたすべき役割へと出発する環境が整います。しかし現実には、宗門は、その本来の願いからかけ離れた所にありました。

大学卒業後、宗門の要請により、京都尋常中学校の校長として赴任した清澤は、その悲しむべき現実に直面します。彼は、本来の宗門へと帰るべきことを願って、宗門改革運動を提起することになります。不安に立てばこそ、彼は、自己の、そして万人の安心の期する所の源泉として、大谷派が、宗祖親鸞聖人の教えを具現する本来の宗門であってほしいと念じたのです。

-不安と求道-清澤満之(きよざわまんし)②-

清澤満之が提起した宗門改革運動は、大きな成果をあげながらも結局のところ失敗におわります。また宗門改革運動中に、清澤は、極端な禁欲生活を実行しますが、やがてその無理が響いて肺結核にかかり、死に直面します。運動の挫折と不治の病の中で、清澤は、人生の苦境にぶつかり煩悶(はんもん)します。そして改めて信仰に人生の解決を求め、自らの体験を、『精神界(せいしんかい)』誌上に<精神主義>の名のもとに開陳します。

宗教は迷悶(めいもん)せる者に安慰(あんに)を与うるものなり。迷悶なき人には、宗教は無用なるものなり。(「迷悶者の安慰」)

清澤が<精神主義>を唱道した明治三十年代は、日清・日露の両大戦に挟まれた時代です。若い魂は、自身を取りまくさまざまな重圧にだんだん追い詰められ、強い不安に捉えられます。いわゆる懐疑・煩悶時代の到来です。

藤村操(ふじむらみさお)の自殺は、このような時代の流れのなかに突発した事件として記憶されます。第一高等学校の学生で、哲学青年であった藤村は、宇宙の真理は何かという疑問に逢着(ほうちゃく)、煩悶し、一九〇三(明治三六)年五月、日光華厳の滝に投身自殺します。この藤村の投身に、当時の青年たちは異常な衝撃を受けました。遺書「巌頭の感」の「人生不可解」の語は多くの青年の合い言葉となり、真似をして自殺する者も相次ぎました。

清澤は、おそらくこの事件を新聞報道で知ったと思われます。その一月後に『精神界』に発表した絶筆「我が信念」には、藤村への応答という一面もまた窺われます。その中で、清澤は、

人生の意義は不可解であるという所に到達して、ここに如来を信ずるということを惹起したのであります。(中略)私は宗教によりて、この苦しみを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ。

といい、

私は私の死生を大事のこの如来に寄託して、少しも不安や不平を感ずることがない。

と告白します。

藤村も清澤も、人知(自我)の行き詰まりの中で、生死(しょうじ)の巌頭(がんとう)に立ちますが、一方は生を断念し、他方はこの不条理な生を安んじて受け入れます。両者の違いを決する分岐点はどこにあるのか。不安の時代を生きている私たちは、今またこの二人に問われているのではないでしょうか。

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