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「不安に立つ―ありのままの自分に目覚め いのちの願いに生きる―」解題(抄出)

不安に立つ

普段、わたしたちが「不安」を感じるのは、自分に都合の悪いことが起こったり、自分の思い通りに事が運ばないような時だと思います。そういった時、「わたしはどうすればいいのか」「どうして納得のいかないことばかりが起こるのか」「なぜ、こんなに苦しまなければならないのか」といった問いが浮かんできます。人は、何とかその問題を解決したいと努力します。けれども、中には、簡単に解決できない問題も含まれています。

そして、何度も何度も同じような状況に遭遇するうちに、多くの場合は、「世の中なんてそんなものだ」「だいたいそんなことを考えること自体、時間の無駄さ」「そんなことは忘れて、明るく楽しくやろうじゃないか」という具合に、自分を問うことをやめて、やり過ごすことになります。

そして、とりあえずもう少し容易に実現可能なもの、例えば、広い意味での地位や名誉や財産や、快適な暮らしや健康や人間関係など、とりあえず自分を意味づけてくれるもので満足しようとします。自分が感じる世の中の矛盾には目をつむって、日常の幸福を追求することに終始します。

これは、言葉を換えれば、自分の欲望の満足の追求であり、日常に埋没した人間の姿です。もちろん、これらを望まない人はありません。けれども、これだけでは、「私はなぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、どう生きればいいのか」が明らかになっていかないのです。つまり、「かけがえのない人生、誰にも代わることのできない人生を、今わたしは生きているんだ」とはとても言えない、空しく過ぎる一生になりかねません。

私たちは願われて生きている。あるいは、わたしたちの「いのち」ひとつひとつが願いをもっているといったらいいかもしれません。「いのち」には、本当の生き方を求めてやまない「いのち」そのものの願いがある。その願いがはっきりしないから、とりあえずその代用品で満足しようとするのです。

けれども、うわべの幸福では満足できない、根源的な「いのちの願い」が、目覚めよと私にはたらいているのだとしたら、その願いが明らかにならなければ自分が存在する意味も明らかにならないのではないでしょうか。

先学である安田理深師(1900-1982)は、あたりまえに日常を生きる私たち人間を、存在そのものの根源に呼び戻すものが<不安>であって、それは、ただ快適で幸せで、心配のない生活を保証してもらうということでは解決しない問いとなって、私たちを「いのちの願い」に、あるいは「存在することの原点」に立ち戻って歩ませてくれるのだと教えておられます。

ありのままの自分に目覚め いのちの願いに生きる

「ありのままの自分に目覚める」というのは、驕ることもなく卑屈になることもなく、仏さまの前に立ってはじめて見えてくる「自分」を、ありのままに受け取るということです。それは、同時に「いのちの願い」に目覚め、その「願い」に生きる、その歩みの原点に立ったということでもあります。

私たちが「いのちの願い」というときの「いのち」とは、生命科学の対象ではありません。人間であることにおいて、「なぜ生まれてきたのか」「どう生きればよいのか」「生きるとはどういうことなのか」、その意味を求めずにはおれないという根源的な願いを「いのち」そのものが持っている。「いのち」とは、それをごまかして生きようとしても、どこかに居心地の悪さを感じるような、深い、深い、自分でも気がつかないような「願い」のことを意味しています。親鸞聖人は、この深い「願い」を「如来の本願」として明らかにされました。

すべてのものの上に「如来の本願」がはたらいている。普段は気がつかないかもしれないけれども、いつも私にはたらき続ける「いのちの願い」を私の願いとして生きる、その歩みの原点に立ち戻らせるのが「不安」です。そこに、私たちが安立する世界が開かれてくることを、このテーマは示しています。

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